MACF礼拝説教要旨
               2019.06.30
イエスの生涯 19
「後にいる者が先になり・・・」
マタイによる福音書20章1節〜16節
20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。

1)「誰であれ存在が認められている・居場所がある」
ここには労働者が集められている様子が書かれていますが、
「夜明け」「午前9時・12時」「午後3時・5時」それぞれ広場にいて仕事を求めている人、仕事を求めても何もなかった人たちがリクルートされています。
仕事の上がりが6時だとすると、夜明けからの人は12時間近く、そして9時間、午後の人は6時間、3時間、5時の人は一時間の労働ということになります。
特に注目に値するのは最後にリクルートされた人たちの言葉です「20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。」と書かれています。
社会的な弱者、能力的に不適格、無力な人たちの姿がここに描かれています。
機能的なことを言えば、ほとんど役に立たない人たちでしょう。でも、ここでは主人が「『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。」とあるように、招かれているのです。
いずれにしても、どんな人にも役目があり、居場所があるのです。
これは大事な点です。

20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

2)報酬は不公平か?
社会的な面から考えれば、こういう支払いをしたら暴動が起こるかもしれません。報酬は仕事の分量や時間等に対する対価と考えるのが普通だからです。
ですから、一般論としては、この支払い方は不公平と感じざるを得ません。
しかし、それは「報酬を受けて当然」と考える事ができる人からのクレームです。
立場を変えて、いわゆる弱者、仕事もなく、行く場所もなく、ずっと立って待っていた人のことを考えたら、彼らにとっては、なんとも嬉しい、ニュースです。

3)神の愛はすべての人に及んでいます。
働ける人にも働けない人にも「居場所は提供され、その人の分としての報酬」が提供されています。
つまり「生きている」「そこにいる」ということ自体に価値があるのです。
神は、私達一人ひとりに対して、精一杯生きるなら、その人にふさわしい報酬を提供してくださいます。
それは多すぎず、少なすぎず、その人の必要にピッタリ合った報酬なのです。

この話を「人生」と考えてみましょう
小さいときから教会に関わり神様のことを学び、神様に愛されて生きてきた人には、その道々、様々な祝福があったはずです。
それは朝早くから駆り出された人と考えられるかもしれません。そこには重労働がありますが、主人との親しい笑いの時間もあったでしょうし、ねぎらいの言葉もあったことでしょう。
ところが、人生の晩年で教会に関わった方々にとっては、あまりに新しいことが多くて戸惑ったり、慣れない賛美歌を歌ったり、そして自分のプライドと戦いながら神様のことを学び、その愛に触れて歩んでいます。
時間的には、圧倒的に幼い頃から聖書に親しんで来た人のほうが長く、奉仕も、犠牲もそれなりにしてきたのだと思います。
でも、高齢者の方が、ことに病床でイエスさまを信じて洗礼を受けた人が、神様から報いを受けるということを聞いたとき腹を立てる人はいるというわけです。

「俺たちのほうが長く神様に仕えてきたのに、能力もなく、奉仕もせず死ぬ直前に信じて褒美をもらうなんて不公平だ」と感じる人はいるのです。
聖書に出てくるファリサイ派の人たちにはそういう傾向があったようです。神の公正さ、神の恵みの深さに怒りを感じてしまう人たちがいるのです。
要するに恵みが理解できていないのです。
放蕩息子の兄もまさに、そういう人物として描かれていました。ルカによる福音書15章
15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』

神に知られつつ生かされていることは、それ自体恵みです。奉仕や勉強、仕事などことに人のためにも祝福をもたらすことが出来るとすれば、本当に大きな祝福です。
でも、それが仮に短期間しかできないような存在だとしても、神様の恵みから漏れることはないのです。
その恵みはあなたにも、私にも届いています。
「それを受け取る資格は、私がしっかり奉仕したからだ」と考えてはなりません。恵みは報酬ではないのです。恵みはいわばギフトです。
それを受け取れて「ありがたいな」と感じる心を育てたいものです。

4)後にいる者が
「ぶどう園に行って働く」という表現は「神の国の民として他者の祝福を願いつつ生きる」ということとつながっています。そこに招かれたこと自体、恵み。そして、主人が願うようにぶどうを収穫する、つまり、他者の祝福を願いつつ生きられること、これもまた恵みであり、苦労はあっても、「主人への感謝をこめた仕事」であり、単に「報酬のための仕事」ではないのです。
神の国の民として生きていること自体、おおいに儲けものなのだと思います。
弱者の祝福に妬みを起こすことで、その人の心の中のさもしさが表明されてしまっています。恵みの中に置かれている自分の姿が見えていないのです。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」とは、能力のない、恵みを知っている人こそ、神の心に近い人になり、能力があり、自力で神に奉仕したと誇ろうとしている人が神から遠い存在になり得る」ことを語っています。そうならないように、気をつけたいものです。
祝福がありますように。